河岸忘日抄・種・フランス装

やや風邪ひいてノドの痛みと微熱。すぐ風邪ひきすぎ。
天気も悪い週末なので本でも読んで過ごす。
風邪をひいたときに本を読む、っていうのは
微熱と、薬の作用のせいもあってか
普段の読書とは少し違う浮遊感を感じられて実は面白い。


堀江敏幸『河岸忘日抄』。今月、新潮で文庫化されたので買った。


この本にはちょっと苦い(?)思い出があるのだ。
以前、ハードカバーの方をAmazonマーケットプレイスで注文したのだが
1週間くらい後に出品者から
「値段を間違えて安くつけすぎてたから今回の取引は中止、
クレジットはもう払い戻しの手続きしたからヨロシク」
みたいなメールがきて、あまりに一方的な態度にやや(否、滅法)腹が立って
怒りのメールを送るも返事はなし。
よっぽどどこかに通報してこの阿呆出品者をトッチメてやろうかと思ったものの
もやもやしている間にそんな情熱も失せて
結局この本も読まないままになっていたのだが
この文庫化の機会に乗じて購入。
今度はちゃんと本屋で。最初から本屋で買えよ、って話ですが。

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閑話休題。以下、半分ほど読んだ感想など。

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ためらいつづけることの、何という贅沢──。ひとりの老人の世話で、異国のとある河岸に繋留された船に住むことになった「彼」は、古い家具とレコードが整然と並ぶリビングを珈琲の香りで満たしながら、本を読み、時折訪れる郵便配達夫と語らう。ゆるやかに流れる時間のなかで、日を忘れるために。動かぬ船内で言葉を紡ぎつつ、なおどこかへの移動を試みる傑作長編小説。


と、まあ何も起こらない感じでゆらゆらと続いてゆく小説なのだが
保坂和志の小説みたいに連綿とした内省モノローグが続くわけでもなくて
もっと、種のような言葉の断片(樽や珈琲、レコード、
太鼓、ファクス、陸ガメ、部屋の調度といった「寓意的なモノ」や
ブッツァーティチェーホフクロフツといった「小説内小説」)が
濃い密度で埋め込まれていて、読ませるリズムをつくっている。
それが後になって何か芽を出すのかと思えばそうでもなく
種は種のまま、なんとなく次の種が呼ばれてきて
何の解決も求めずに流れてゆく。


それから会話文がすべて地の文とひと続きになっていて
括弧は使われていない(自由間接話法というのだっけ?)ので
三人称の中に話者の視点が多重に入ってきて
世界を見る視点がずっと微妙に揺れているように思える。
ゆらゆらと揺れて、どこかに行けそうなのにどこにも行かない。
「繋留された船」というこの設定自体が、そのままこの小説を顕している。


なにも起きない。っていうのは物語的営為のうえでのことであって
実際にこの小説を読んでいくうちには
色々な感触が次から次へと饒舌に押し寄せてくる。
むしろ、象徴的、寓意的な断片は、これでもかというくらい散りばめられている。
寓意や象徴が小説にもたらすのは物語の動きだ。
でも、主人公の「彼」の独白はそういう動力に対して
平衡化を促しているように見えるし、
段落ごとに空白の行が差し込まれるのも
彼の暮らす河岸の、その船の内部の丁寧な描写も
そういう平衡化のはたらきをより強めている。
種、エピソード、独白、平衡化の連続。
そこでまた「繋留された船」たるこの小説が少し揺れる。


『雪沼とその周辺』を読んだ時にも思ったのだけれど
堀江敏幸の小説を読むときに感じる「何か」
それを僕は「感触」という風にしかうまく書けないのだけれど、
たとえば僕がさっきから「種」っていう言葉を使っているときに
なにかコロコロした固い手触りのものを触るような「感じ」を受けたり
種という言葉が象徴する他のものを連想したり
種にまつわる個人的記憶をなんとなく想ったりすると思うのだが
この人の小説は、そういう「感触」を伝えることに
ものすごく意識的に書かれているような気がする。



文庫版のカバー写真もまた良い。
新潮文庫っぽさ、という尺度が
どれだけ存在しているのか分からないけれど
堀江さんの小説には新潮文庫が似合う。
天のアンカットとかスピン(しおりの紐)とか。
装幀の、ちょっとした意匠と、文庫の軽さ。


ハードカバーの装幀がどうなっているかは
前述の理由で知らないのだが
こちらはフランス装になっていることを願う。
いま日本の小説家のなかで
最もフランス装で読むのがしっくりくるのは堀江さんではないだろうか。


河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)