阿佐ヶ谷ロフト・雑誌に未来はあるか?・センティメント

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阿佐ヶ谷ロフトAにて
仲俣暁生さんと森山裕之さんのトークイベント、
「雑誌に未来はあるか?」
http://d.hatena.ne.jp/solar/20080115


阿佐ヶ谷ロフト。
昨年末にオープンして以来ずっと気になっていて、
ここへきてかなり興味深いメンツと興味深いテーマなので
行ってみたら立ち見も出るくらいの満席。
最初は場の雰囲気もちょっと固い感じがしたのだけれど
休憩を挟みつつだんだん雰囲気も温まってきて
所々に考えさせられるコメントもあって面白かった。
途中で一旦シメたところで帰ってきたのだが
それでも3時間20分!長い!


終盤、森山さんが「紙(雑誌)って人そのものでしょ」というようなことを
何度も力説していて、
それは、たぶん五感に訴える物質性とか
どこから読みはじめてもいいインターフェイスとか
そういう「雑誌の魅力」のことを言っているのだと思うけど
雑誌が好きで雑誌制作に関わっている人はみな
同じような感覚は持っているのだと思う。


仲俣さんも言っていたけれど
この業界の不景気が叫ばれて久しいが
それは、雑誌というメディアにある魅力が損なわれた訳ではなくて
お金(広告料)を生み出す装置としての求心力が弱くなっただけである。
(それはすごく健全な、かつ困難な状況でもあるのだけれど)
ビジネスとしても、何か明確な目的に到達するための媒体としても
今やインターネットの方が圧倒的に容易で便利なわけで
そこからはみ出す部分にこそ「雑誌的なるもの」が宿っているのだろう。


僕はエディトリアルデザイナーという職業についているが
この仕事において一番ウェイトを占めるのは「情報の整理」であったりする。
編集者やライターの混沌、茫漠としたイメージを優先度のフルイ、レイヤーをかけて
誌面の流れのコントロールをつけていく。
エディトリアルデザインにおいては
情報を整理すること=形をつくっていくこと、とも言える。
ただ、それだけでは訴求力に足らない、ということも重々承知していて
整理して並べることが下部構造だとすれば
上部構造としての「雑誌的なるもの」に意識的でありたいとも僕は思っている。


en-taxiの編集長、壹岐さんの話にあった
「雑誌に情報や表現を求めなくていい。
振り返って眺めた時に時代が見えてくればいい」
というような話も興味深く、
まさにその、時代を切り取る行為そのものが「編集」なのだと思った。


雑誌によって切り取られる時代にしても「雑誌とは人である」という考えにしても
雑誌というメディアの持つ特異性というのは
やはり個人的な体験と結びついている。
イベントの中でそれぞれの「雑誌の原始体験」について話す、というのも示唆的である。
出版ビジネスの中にいながらも、そこから遠ざかろうとする姿勢とか
そういうことも引っ括めてなんだか青臭くて感傷的なメディアだなあと改めて思いつつ
でも、そもそもそういった無駄なセンティメントが大好きで
文字メディアにそれを求める人が雑誌を作っているのだろうな、という気もするのだ。


話を聞いて、一番「この人の作る雑誌を見てみたい」と思ったのは
ゲストで「HB」編集発行人の橋本さんだった。
http://d.hatena.ne.jp/hbd/
一度も読んだことがないので買ってみよう。
と、検索したら阿佐ヶ谷には取り扱い書店がないのだった。
サブカルなイベントスペースができたのは良いけれど
サブカルな本屋はあまりこの街には無い。
まさしく阿佐ヶ谷ロフトができた場所こそが
阿佐ヶ谷一のサブカル性の高い古本屋の跡地だったのだが。残念。